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「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp
絵本をよむこと
人前で「表現」をしなくなった。

回想
昔は表現したかったなぁ
もうなにかあったら、表現表現って
だめ、こんなところで・・・
いいじゃん、ここで表現しよ
ってもう付き合いたてのカップルみたいにね。

そして恋が終わったように
人前で表現をするのが恥ずかしくなった。

「表現しているようでは表現者とはいえないね」

弓矢を使うようでは本当の弓矢の名人ではないという
故事「名人伝」にあるような気持ち・・・
・・・ちょっと良く言い過ぎた。

多分、表現しようとしていたときは表現することを探していたんだと思う。
でも、よく考えてみると表現するようなことは何もなかった・・・。

表現することを生業にして
それは衝動から日々の睡眠のように
安らかで当然なものになった。
それはあえてするものではないのですね。

で、絵本の話し。
唐突。
なぜ、「表現」をしなくなったかという経緯についての二~三の事柄。

「沐浴」に続いて、「絵本を読むこと」は父親の仕事ではないかと思うこの頃。
言葉は多分に社会的なもの。
母親が子供にとって個人的な存在であるなら
父親は子供にとって社会への入り口を担う存在であると思える。
つまり、初めての外部なのである。
母は子供の内部にある。他者ではない。
でも父は他人。
そう、「父は永遠に悲愴」(by 朔太郎)である。

言葉は他者と交信するための窓になる。
その窓を個の世界にぶち抜いて、風通しをよくしてあげるのは
父親の役目ではないかという理屈。

母親の乳が母親にしか与えられない子供にとってのマナならば
父親の言葉は父親が子供に与えられる唯一の乳のようなもの。
それをたっぷり授乳したかどうかで子供の発育は大きく左右される。
母の乳は肉体、父の乳は精神。

その言葉の乳を絶対にTVに代用させてはいけない。
それだけはいけない。
危険、そう、危険です。これだけは言える。
僕は教育の専門家ではないけれど
「言葉と文化」については一応、講義もしていたのでなんとなく詳しい(ハズ)。
言葉を覚えさせる為に、TVを利用する人がいるようなのですが
TVの言葉は一方通行でしかなく、子供にとっての言葉とは言えない。
幼児期にTVを長時間観せた子供が暴力的になるという研究結果もあります。
つまり、それほど、子供にとっての言葉は重要なんです。

たくさん、大人の言葉で話しかけるというのもよいと思うのですが
絵本は子供と言葉でコミュニケーションするための格好のメニューですね。
僕の夢は(夢じゃないけど)子供のためのデジタル絵本をつくることです。
ここは重要なのでもう一度いいます。
「子供のためのデジタル絵本をつくる」
TV批判をしておきながら、何故デジタルかというと
まさにデジタルが怖い存在だからです。
事故もたくさん起こる。
でもいずれ子供はデジタルと遭遇することになる。
ならば、それを豊かなものとしてワクチン接種してあげたい。
社会の窓、父親として考えるわけです。

これはとても個人的な思いでもあるのですが
絵本は文字を読んじゃダメだと思っているんです。
読み手が読み手の言葉で話さなければダメ。
あえて、ダメという言葉を使わせていただきますが
絵本の醍醐味はいかに絵本から逸脱するかにあるんです。

どうするかという言うと
まず子供に読む前に一度、自分で読んで
それから、文字を見ずに自分の言葉で語ってゆく。
一度、やってみてもらえたら本望なんですが
子供の反応が俄然、変ってきます。
そして、自分の言葉なので、子供が質問してくる余地が生まれます。
そこが重要なんですね。
そしたら、子供を巻き込んで物語を発展させます。
子供に質問し返したり、物語の選択肢をあげるんです。
子供の想像力は原作を凌駕します。
これは驚きです。

桃太郎に恐竜が同行したり、
ライバルのリンゴ次郎がヘリコプターに乗って登場したりします。
最後には鬼と仲良く踊ります。

こうなったらもう絵本は閉じます。

そして、この絵本の読み方の醍醐味のもうひとつは
毎回、両者のコンディションで内容が変ることです。
何度読んでも飽きないし
毎回違う発見があります。
「桃太郎」はもう、何百回も読んだ気がします。
一大巨編になっています。

(でね、いつか、その、絵本から逸脱するための逸脱しやすい道具としての
デジタル絵本をつくります)

ここで話しを大きく引き戻します。
だから表現をしなくなったんです。

唐突

つまり表現をわざわざする必要がなくなった。
子供と一緒に本を読んでいるとそう感じる。

そして、表現することを職業にしてできた悪い癖。
・まずクライアントありき。
・売れるエッセンス(味の素)をふり掛ける。

あと、どうしても拭い去れない自己表現への欲求という問題。
どこかで自我や欲が出てしまう。

こんなものを子供に食べさせるわけにはいかない。
絵本を読んでいるとついつい表現しようとする自分がいる。
これは舞台に立っていた自分の本当に悪い癖だ。
これが一番の表現をしなくなった理由。

ただただ、物語にプラグインすればいい。
あとは、誰かが語ってくれる。
誰かとは伝説の神々ではなく、社会。
物語は昔から、とても社会的なものでした。
集団が車座になり、台本を持たずに語る。
物語はその場で立ち上がり、過去に生きた人々と交信される。
そして物語は人々がなにを感じどう生きるかを教えてくれる。
それは日々、変奏され、繰り返される。

物語を語るということは文字を持たない人々にとって
とても重要な生活の糧であり習慣でした。
でも、現代人にはこれと同義の習慣が欠落しているように思います。
私にはどうしても「自己表現」という行為がこれの貶められた形式のように思われます。
しかし、これ以上のものを私たち現代人が持たないのも確かです。
物語の世界は個人で冒険するにはあまりにも危険すぎるもののように思います。
本来、物語に著名はなく、共有され意味を見出すはずのものが
個人のエゴで満たされ、精神を傷つけるものになりかねない現状。

物語には日々の繰り返しを豊かにしてくれる力があるように思います。
この豊かな社会への窓を子供に与えるのは大人の義務のように思えてなりません。



でね、うちの子、言葉の発達が早いと幼稚園で驚かれました。
周囲でも評判です。
これもひとえに、絵本のおかげかもしれません。
なんだ、まわりまわって結局は自慢かよ!
というお話しでした。
おしまい。
by radiodays_coma13 | 2009-11-11 11:25 | 言葉について | Trackback | Comments(5)
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Commented at 2009-11-11 20:43 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by radiodays_coma13 at 2009-11-14 22:48
アブ さん

ありがとうございます。
SSWSのパフォーマンスを何度も聴いてくださっているんですね。
最近はこの日記にもあるように、ほとんど舞台には立っていません。
でもきっと何かは作っていくと思います。
その時にまたアブさんの目に止まればと願います。

自主出版の本は2冊出しましたが
自分で装丁をした本で、数も少なく
嬉しいことに全部、いなくなりました。

最近だと、
「京都ダイナマイト、新世紀アンソロジー」という
アンソロジーに詩をのせてもらっています。
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31916761
詩よりも「装丁」を担当させていただき
そちらの方がオススメだったりします。
Commented by undoleRunda at 2011-11-17 23:12 x
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Commented by neurnkayare at 2012-01-23 05:18 x
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Commented by trigwoomfot at 2012-03-29 22:08 x
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