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言葉と文化
by radiodays_coma13
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幸せのテクニック
 幸せとは何ぞや!…なんて、幸せについて語るような野暮なことはしません。ええ、しませんとも。でね、話は変わるけど幸せってなんなのかしら?誰かしってる?でも、なんなのか知らなくても幸せにはなりたいわけですよ。幸せと気持ちいいは同じ?違う?でも似てる?快不快で言えば快だわね。美味しいとかさ、セックスして気持ちとかさ。これ幸せ?それはちょっと違うんじゃないかな。幸せってそんな短絡的なことじゃなくて、こう人生の指針というか、なんというか…。いや、ゴメン、カッコつけちゃった。正直、シ・ア・ワ・セって感じるよ。

 よく言うよね。不健康になってはじめて思う、当たり前の喜び。普通にお風呂に入れるとか、普通に歩ける幸せとか。でも健康な僕はそんなことで幸せは感じません。贅沢だなんだと言われても、そんなことでいちいち幸せを感じてたら、会社までたどり着けません。ただ、それで、幸せを感じ続けられるのなら、会社なんか行かなくてもいいかななんて思ったり。おそらく、誰にとっても人生の目的の根っこには「幸せ欲」が巣食っているに違いない。幸せでありさえすればそれでいい!だが、しかし、世の中には多幸感を味わえるオクスリだって存在する。コレ、本人は幸せなわけですよね。じゃあ、どうして止めるんでしょう。恐らく、コレはそれを見ている人が幸せじゃなくなるからなんでしょうか。

 「世界のみんなで幸せになろうよ!」それね、きっとムリ。僕でも分かる。みんなでは幸せになれないよ。個人個人での幸せはあっても、関係が成り立たない人をどうやって幸せにするの?ほら、人の不幸は蜜の味なんていうじゃない。僕だってそこまでは思わなくても、今、自分が友達と騒いでいて楽しいとき、どんなニュースを見せられても幸せは揺るがないもんね。カムチャツカで少女が陵辱されようとも、アフリカで子供が飢えようとも、その時、僕は楽しい。彼らの悲しむ顔をTVで見ても僕はまだ笑ってられる。私たちが共有しなければならないのは、対岸の火事に逃げ惑う人の悲劇ではなく、今ここにいる人の気持ちに共有できない人々の心の悲劇だ。TVや携帯電話は現実とは違う距離の感覚を生み出した。小さい頃、近くの銀行で強盗事件が起こった。その前をたまたま通りかかった僕は何の感動もなくそこを通り過ぎた。しかし、家に帰ってTVでそれを見た時にはじめて「すげぇー!」って…。アフリカの子供たちを心配する母親が自分の子供を飢えさせる。殺人者がTVニュースに涙する、なんてこともあるだろう。

 でも、確信して思えるのは、幸せって感じられる僕は幸せだということ。これ、ヘリクツじゃないよ。ほんと、そう思おうもの。「サトムネコーマ、幸せの感じ方」なんてハウツー本を出そうかなって思うくらい。幸せはテクニックだと思うな。不幸というのは惰性。人のことを不幸だと思うのは失礼。案外、不運な人も不幸だとは感じていない人もいるんだから。だからこそ、僕はカムチャツカの少女に動じない。

 ただ、幸せにも質があると思う。単なる快不快じゃないところで幸せを感じることが人にはある。その映画はあんまり好きじゃないけれど「ステラ」というハリウッド映画の最後のシーンは好きだった。やさぐれ女のステラが自分の子供の幸せを願い、子供を突き放す。そして、娘の結婚式、式場の外にこっそり娘の式を覗くステラの姿が…。僕はてっきり最後は娘と抱き合ってハッピーエンドだと思ったら、彼女はぷいっと振り返って雨の中を口笛ふいて去ってゆきエンドロール。人には人の幸せを自分の快不快を超えて願うことができるんだなあ。一方、目先の快だけでぶくぶく太る人。彼らは実は心の中で大きな不快を抱えているに違いない。ただ、ひとつマトモなことを言わせてもらうと、人が自由に幸せの感覚をコントロールできたら、人の世界にこんなにたくさんの悲劇は起こらないんじゃないかと思う。いやあ、語った語った。もう、おなか一杯。
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で、今日の作品は「LUCKY」
一人でも多くの人に幸せになってもらいたいという思いを込めて。なんてね。
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by radiodays_coma13 | 2005-03-13 15:18 | 感覚について
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