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言葉と文化
by radiodays_coma13
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人工知能vs人間
10年後自分は一体何をしてるだろう?


私の場合、自分が10年後、今と同じ仕事をしているイメージはまったく持てない。例えば、それはIT業界の定めみたいなものでもある。2年単位で次々に業界は様変わりしていく。たとえ、ひとつの会社に10年いれたとして、プログラマーだったのがもしかしたら和菓子を練っているなんてこともあるかもしれない。それくらいにめまぐるしく、業態や職種も変化する。だって1年前にはグロースハッカーやら、エバンジェリストなんて職種聞いた事なかった。

そして、10年後を大きく変えるであろう大きなインパクト
人工知能
人工知能の研究をしている知人から、真顔で
「人工知能はあと10年で、
 今ある仕事の在り方をごっそり変えるから
 気をつけた方がいい」
と言われた。

「どう気をつければいいのさ?」

車にひかれないよう気をつけるみたいに通り過ぎるものならいいんだけど、それがやってきたら、ごっそり世界は変わる。もう戻らない。
「人工知能で置き換えられない
 職業につきなさい」

今から?

それは僕、個人の能力の問題ではなく、みんなに等しくそのインパクトがやってくるだろう。今、ある仕事のほとんどが人工知能ロボットにとって変わられる。何もしなければ、社会からの途中退場を余儀なくされる。定年になれば、個人タクシーの運転手にでもなろうかな、なんて。リタイヤの定番のコースも、ロボットに取って代わられる職業の筆頭である。居眠りをないし、うっかりミスもしないロボットドライバーで事故率はかなり減るんだろうね。

そんなに人間の仕事をロボットが肩代わりしてくれればいずれば働かなくていい未来がくる!?

なんてことはきっとないんだろう。働かなくていいのは経営者だけ。休まず働くし文句も言わないロボット社員は経営者には理想に違いない。雇わない手は無い。
「ロボットを管理する職業は残るかもね」
と知人は言っていたが、それもいずれロボットがやってくれるだろう。経営判断もロボット化する。現時点で株のトレーダーに関してはバイアスに左右されない分、すでに、人間よりも人工知能の方が優秀だと言われている。

じゃあ、人間は何をすればいいの?

アート表現や、エンターテインメントに関してはさすがに無理でしょう?

果たしてそうか?

それは人間の希望的観測に過ぎないのではないか。生命の基準や人工知能のチューリングテストのように、人間がそれと気づかなければ、もう、それを生命や知能と呼んでも差し支えないのではないか。人工知能に感情の再現が難しいと言われているが、感情のシュミレーションはできるだろう。人間が何を喜ぶかという統計的な判断こそロボットが得意な分野であるはず。 表情から感情を分析し、一緒に悲しんだふりをしてくれたり、喜んでくれる振りをしたりする、友達ロボに癒される未来はすぐそこにある。

私が自分の知りたいことのテーマにしている、「美しいや楽しいなど、人間の感情について」。例えば美はかなりの部分、理論化が可能である。鳥や虫が特定の形状を好む性選択こそが美である。大きな羊が「美」という文字の起源であるように。文化や個人の差こそあれ、用の美を計測していくと、美の技法化は可能であるだろう。現状でも、デザインには90%の正解があると言われる。

そして、きっと、近いうちに、アプリケーションがそのデザインの正解の判断を行ってくれるようになる。デザイナーはその機能が搭載されたIllustratorに注意されるようになるだろう。

「カーニングにミスがあります。」
「配色違反があります。」
「あなたのデザインは42点です。」

可愛い女の子ロボットに叱られるならちょっとうれしいかも?気がついたらロボット上司にドライに役立たず宣告される日がやってくる。これから大人になる世代はその現実をすんなり受け入れるかもしれない。しかし、辛いのは人工知能普及の過渡期にある我々の世代だろう。仕事を奪われ、自分より優れたロボットに管理される状況に精神が耐えられなく人も多く出てくるんじゃないか。

現状、開発中の人工知能にみんな夢いっぱいで、その負の側面というのはあまり語られないが、まさに、開発しているその当事者たちは、それがもたらすインパクトにはとっくに気づいているはずだ。10年後、現在ある90%の職業はなくなっているという試算がでている。ヘブライ大学の教授、ユヴァル・ノア・ハラリの刺激的な書籍の中では、人工知能の発達が人口の大半を占める「役に立たない人」という新しい階級を生むと言っている。

Alphagoという囲碁の人工知能は世界トップクラスの棋士李世ドル氏に勝利した。予想よりもかなり早い発達と勝利だった。そして、ついに将棋の人工知能対決、電王戦に羽生善治さんが挑戦するというということを発表した。それらのことのインパクトは大きい。人VS人の対戦を楽しむゲームは人VS人口知能との対決を楽しむようになる。しかし、それも過渡期のお話で、いずれ、人工知能は人間を超越し、かなわなくなる。その時、プロ棋士はプロであり続けることができるだろうか。

きっとそれに反発する人たちもでてくるだろう。理論に当てはまらない美や、文化に魅力を見出すことになるのかもしれない。ロボット排斥運動が起こり、もう一度、手作業で車を作ろう!とかね、非合理を追求する人々。非合理性だけは人工知能には理解できないと脳科学者の中野信子さんも言っている。しかし、ロボットにしてみたら、感情や、非合理性、そんなものノイズでしかない。やがて、政治家も汚職がないので、みんなロボットに取って代わられスーパークリーンな政治が行われるかもしれない。晴れて我々はロボットに支配される。

我々に残されている仕事は非合理と感情で作り上げるエンターテイメント産業くらいかもしれない。ロボットにとってはそれはノイズかもしれないが、人間に残された唯一の聖地。我々は娯楽に没入していくだろう。オーバーヘッドディスプレイをつけて架空の世界の中で休日を過ごす人々の姿はなにかモノ悲しい。

人工知能は本当に我々を阿呆にするだろうか?

ニコラス・G・カー著の「オートメーション・バカ」という本では先端技術が我々を無能にしていくという事が書かれている。我々はオートメーション化によって多くの技術をロストしている。身近な例で言えば、もう、服の作り方をしらない。火の起こし方を知らない。もし、真冬にテクノロジーが使えなくなると、我々は凍え死ぬ。しかし、これには反論がある。数千年前、ソクラテスは本を批判したことがある。本のせいで記憶力が失われると。これはPCの発達でも同じことが言われた。
「人はもう記憶する必要はない」
と。しかし、それは杞憂であった。むしろ道具は我々を利口にする。意識を外在化させることで人間は知能を発達させた。道具は我々の新しい器官である。携帯電話というテレパシー器官。車という素晴らしい足。道具の発達はむしろ人間を次のステージに上げてくれる。人工知能に負けて久しいチェスの世界でも、現在ではまた人間が勝利するようになってきている。

だが、やはり、それについていけない人もいるだろう…。進化できる人間が支配階級になり、あとは予言通り、無能階級となるのではないか。

あと数十年後、残っている職業は?僕はいつまで働ける?

MITの経済学者エリック・ブリンジョルフソン博士の書籍「機械との競争」では統計的に技術が進化し機械化が進んだとしても労働者は仕事を奪われることはないとしています。今のままの世界ではないとしても、次の時代には次の時代の新しい仕事が産まれるだろう。ただ、同じ場所に座り続けることはできない。考えれば、それは、いつの時代でも同じことなのかもしれない。前を向いて歩くしかないということか。

チェスの人工知能で最も強いのは最も優れたロジックではなく、優れた人間とロボットのチームワークによるものだそうです。つまり、人間が人間たる強みであるコミュニケーションこそが、優れた人工知能を凌駕しているという意味は大きい。猿にもコミュニケーションがあるが不特定多数のコミュニケーションが可能なのは人だけだ。それによって人はまったく知らない人とも連携が可能になる。知らない人の運転している人の電車に乗り、あまり知らない人と一緒に働く。そして数万人単位のコロニーを形作る。人間のその偶有性を備え複雑なシステムを形成する能力こそ、人工知能を凌駕できるのではないだろうか。

そもそも、人は一対一では猿にも勝てない。

可能性はそこにあるように思う。我々は一人ではない。どんなに孤独であろうが、人は無数の人とつながり助けられている。人がアンドロイドを愛するようになる未来はくるかもしれない。しかし、ギリシャ神話のピグマリオンは既に、創作物に溺愛するというオタクのはしりのようなことをしている。それは何も目新しいことではない。アンドロイドだって人が作ったのである。間接的であれ、人の心を愛していることに違いはない。ロボットが現れ、人の意味は大きく問い直される。素晴らしい時代ではないか。人が人を超える知能を作り上げる歴史的な時代に生まれ、それに立ち会えるなんて。たとえ、それが悲劇でも楽しむ余裕は持ちたい。楽しむということを楽しむことができるのは人間にしかできない。美しいことを喜ぶことはロボットにはできない。

誰かを喜ばせたい。誰かの役に立ちたい。そう思える限り人は無能階級ではない。ロボットは我々を喜ばせてくれるが、人はロボットを喜ばせることはできない。その悲劇は幻想である。喜ばせる意味はないのだ。ロボットは道具に過ぎないからだ。フェティシズムとして愛することはできても、それは人への愛の変奏には違いない。コミュニケーションがそこにある限り、人は人であり続け、生きる意味は失われることはない。

人はかつて、人と愛し合った。
そして、これからも。

# by radiodays_coma13 | 2016-06-07 19:10 | 考える
有識者の罠
「一体なにを学んできたの!?」


企画会議などでありがちな光景。仕事で相手をいちいち見下し、批判し、ディスる人っていますよね。この発言がもたらす影響について考察したいと考えていました。

これはモチベーションが下がるだけの問題ではありません。それらの発言によって会社にどれだけの不利益があるのか。コミュニケーション、クオリティ、士気の問題、業務への影響は計り知れない。

ある人は言うかもしれない。

「彼らは、叱り批判することで、
その人を育てているんだよ」


ではそのことを前提に考えてみよう。叱った方が効果があるのか、褒めた方が効果があるのか、社会心理学社のダニエル・カーネマンがそのことに関してイスラエル空軍においてデータをとりました。その結果、そこにあったのは「平均回帰」という統計的な現象であった。つまり良い結果の後は得てして、悪くなる。悪い結果の後にはだいたいは良くなる。叱ることで良くなるというのはただの錯覚に過ぎなったわけです。

一方で、フロイト、ユングに並ぶ、心理学の巨匠である、アルフレッド・アドラーも、褒めたり、叱ることは間違いであるとハッキリと言っています。褒めることで気を良くした人は褒められるために仕事をするようになるからだと言う。叱られた人は叱られないように仕事をする。自発的に考え行動したいという自律心を阻害してしまうのだという。やがて、彼らは、その報酬なしでは行動ができなくなる。

ある単調な仕事に対して、報酬を与えるグループと与えないグループで、仕事にやりがいや楽しさを感じるのはどちらのグループか?これは有名な実験である。答えは報酬をもらわなかった側がやりがいを感じる。報酬をもらえなかった人々は、その仕事に対して、これは自分が楽しいからやっているのだという自発的な意味を作り出したのだ。

アドラーは人を育てるのは報酬ではなく、感謝であるという。人は誰かから感謝された時にもっとも勇気づけら意義を感じたのである。アドラーがアメとムチ教育を徹底的に否定した理由がここにある。

***

「いや!彼らは少しでも企画の成功率をあげるために
意見しているんだ」


企画の成功率に関して、起業成功率の統計的なデータから考えると、起業内容と成功との間には確率的な因果関係はなく、純粋に継続とチャレンジの回数に相関するということが分かっている。結局は企画云々ではなく、最後までそれを「やりきる」かどうかが成功を左右するというわけだ。「やりきる」には経済力と気力、体力、そして、それを支える信念や愛情こそがもっとも重要な要素だと言える。

企画の内容に大きな意味がない以上、本当は彼らがすべきなのはその企画に愛情を持てるようにするための支援ではないだろうか。これをやるなら、もっとこうすれば面白い。こうすれば、ウィークポイントを補える。等々。しかし、実際に彼らがしているのはダメ出しという名の破壊である。

***

「だが、語気はどうであれ、彼らが正しいことを言っていたら?
それは有用ではないのか?」


正しいかどうかにどういう意味があるのだろうか?

有識者は後知恵で語ることを常としている。しかし、彼らが正しいことを言っているように見えるのは「後知恵バイアス」による。起こった事の結果の中から都合のよいデータを集めて、ストーリーを作るのは知識さえあれば誰にでもできることである。それは正しいのではなく、間違えていないだけなのだ。何かが論議される時、過去のデータによる「後知恵バイアス」で、意味ある意見がゆがめさせられることこそ注意しなければならない。

企画会議においてもっとも意味がないのはその企画の荒らをさがすことである。企画の内容の云々と企画書の出来不出来に相関はない。それを指摘するのは彼らのトリックに他ならない。企画書に眠る有意義なアイデアが、それにまつわる内容の不備によって潰されてしまう。彼らは金の種を探しているのではない、企画書を批判することで、自分を他よりも優位に見せているに過ぎない。つまり、単なる権力闘争なのである。

彼らは「後知恵」で語るので、今までに存在しないものについては語ることはできない。気付きもしないだろうし、それを推薦されたとしても、今までにないというだけで全力で否定してくることだろう。有識者には金の種を見つけることができないということを早めに理解すべきである。もし、問題が発生したとき、彼らはしたり顔でこう言うだろう。

「だから言ったでしょう」

これこそが後知恵バイアスによる発言そのものなのだ。

***

新しい発見とはまだ誰も見た事がないものである。ならば、それを誰が判断できるというのか。それを行動にうつすのは正しさではなく、信じること意外にない。大航海時代、初めてブラジルを発見したペドロ・アルヴァレス・カブラルはそこを島だと思った。正確には島ではなかった。では、その発見に間違いがあったからと言って、発見そのものに意味がなくなるのだろうか。新しい発見は誰もが目をつけなかったからこそ、新しいのだ。キラキラ輝いて、地上に鎮座しているものではない。どんな石も磨けば光る。地上で輝く石は得てして、もうすでに誰かによって磨かれ、所有されている。


本当に生産性を高め、互いの能力を引き出し、やりぬける組織とはどんな組織なのか?グーグルが同社にある数百のチームに対して、行った社内の統計の専門家や組織心理学者による分析がある。(プロジェクト・アリストテレス)。その結果、従来言われている

・「カリスマリーダーがいる。」
・「優秀なメンバーが集まっている」
etc

などの要素はほとんど生産性に影響を及ぼしていなかいことが分かった。そこで重要だったのは、思いやりや心遣いなどの相手への共感や理解力だった。それこそがチームの生産性を高めたのだ。

社内に有識者や批評家は必要ない。4番打者とエースを集めたからと言って、毎年優勝する球団が作れるわけではない。誰がいると言うよりも、誰かの小さな発見に驚き、自分の発見を誰かに話したくなるようなチームの方が創造性を育む。成功するために多くのチャンスをつくり最後まで走りきることが肝心だとして、そのような転んでもすぐに立ち上がれる強いチームを作るには、お互いに励まし磨き合えるムードの方が求められているのではないのだろうか。

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# by radiodays_coma13 | 2016-05-31 01:18 | 考える
「日本のゲームはクソだ」-ゲーム開発者の想い
GDCで海外ゲーム開発者が「最近の日本のゲームはクソだ」と話す

そのニュースをみてからずっとその言葉が頭の中をリフレインしている。
ゲーム作りを生業をしている自分にとってはとてもショッキングなニュースだった。ただ、ショッキングというのではなく、それは明らかに画面の向こうから、自分自身にむかって投げつけられている言葉だった。質問を発した、ゲーム制作者は自分に置き換わりその会場での冷ややかな反応は突き刺さった。
そして、彼同様、嫌な汗が流れた。

本来は、こんなことを、当の日本のゲームを作っている自分が言うべきではないのかもしれないが、私はその言葉に「そう、そのとおりなのさ、日本のゲームはクソだよ」と自省からだけではなく、何度も心で返答している。
そして「いつのころからかね」と付け加える。

どうしてクソになったのか
いつのころからか・・・。それは、ちょうど、自分がゲームを生業にし始めた頃からだと思う。
ちょうど、モバイルでFLASHによる無料のゲームが遊べるようになり始めた頃ではなだろうか。FLASHによるミニゲームは今までのゲーム開発費とは比べ物にならないほど、安価で制作することができた。制作日数も、通常、個人ならば数ヶ月要するような作業が1からコーディングしても一週間程度で完成させることができた。そして、無料ゲームをうたったモバゲーやグリーの成功で既存の大手ゲーム会社も携帯のゲームに参入してくる。そうなると今まで莫大な費用をかけて制作してきたゲーム会社の仕事はなくなる。また、そのように手がけたアーケードゲームやパッケージゲームは廃れてゆく。作るとしても、安全策を狙い、今まで流行ったゲームの焼き直しをつくることになる。

結果的に、ゲームはクソになっていく。

ただ、それだけが理由ではないと思うが、それは複合的な理由のうちの大きなひとつではあると思う。そして、その自分自身が日本のゲームをクソ化させるその流れを加速させてきたことを確信している。モバイルでFLASHゲームができ始めた頃、当時最大となる500本のFLASHによるミニゲームの開発責任者となり、スタートしたばかりのモバゲーにゲームを提供し、その後も会社を変えながらも月辺り平均50本、多いときで100本程度のFLASHゲームの制作にかかわって来た。そして、一本のゲーム単価を3万円まで引き下げた。

当時、いくつかの大手や小さなゲーム制作会社の人たちに「勘弁してくださいよ」と言われた。直接、言われていないだけで、ほぼ、すべてのゲーム会社に働く人がゲームのそのような流れに対して、一度くらいは「勘弁してくれよ」と思ったに違いない。僕たちはイナゴのように日本のゲーム業界を荒らした。後にはぺんぺん草も生えない。そんなことも言われた。確実に日本のゲーム業界を弱体化させてしまった。私は確実にそのA級戦犯になるだろう。クソと言われた会場でひややかな観客の反応は、私自身に向けられるべきものだった。



ファミコン黄金時代
自分でもなぜゲーム業界にいるのか不思議でならない。私はまったくもって熱心なゲームプレイヤーではない。どちらかというと、ゲームをまったくやらない部類の人種になると思う。しかし、それはやらないだけで、ゲームを愛していた。小学校に入った頃から、画用紙にパズルを作り、友達に売りつけていた。パソコンが出始めた、5年生の頃から、自分でゲームをプログラムしてこれも友達に売りつけた。しかし、あまりにも早くゲームを作る喜びを知ってしまったためにゲームを遊ぶ喜びを知る前にそれが凌駕してしまった。私にとってゲームは遊ぶものではなく、作るものだった。

しかし、ちょうどファミコンが出始めた頃にはワクワクさせるようなゲームがたくさん出てきた。見ているだけで楽しかった。それで十分だった。それはとても刺激になった。それを越えるようなゲームを夢想するのが楽しかった。学校から帰ると、すぐにゲームセンターに走り、新しいゲームが出ていないか確認した。友達が新しいファミコンソフトを手に入れたと聞くと、駆けつけた。

しかし、いつしか、ゲームは大掛かりなものとなり、自分ひとりでは作れない、手の届かないものになっていった。ゲームシステム自体も似通ったようなものが増え始め、それとともにワクワクすることもなくなり、心がゲームから離れてしまった。

これは個人の考えでしかないが、思えばゲームのクソ化はここから始まっていたのかもしれない。



ミニゲームの逆襲
FLASHという開発ツールでゲームが簡単に作れることを知ったとき、私は飛びついた。まだ、試験的にFLASHを採用した携帯電話の情報を聞くと今までの仕事をキレイさっぱり辞め、その世界に飛び込んだ。携帯のスペック上、容量やロジックの制限もあり、できることはまだほんの簡単なことに過ぎなかった。いわゆるファミコン初期のゲームに近かった。そのことが私にはなにより魅力的だった。
「ミニゲームの逆襲」という言葉が常に頭の中にあった。
それがゲーム業界を席捲すると夢想した。
そして、それがその通りになった・・・。

荒らそうなんて思ってもみなかった。
今までの思いをぶちまけた。自分の中に秘めていたゲームアイデアを次々に再現した。その中のものは海外のゲーム会社に買ってもらったものもあったし、それなりに評価も得た。得たと思う。ミニゲームなりに、新しいゲームアイデアをこめた。でも、悲しいかな、ユーザーはそんなものを願っていなかった。売れるのは既存の売れ線ゲームだけだった。ユーザーやクライアントは実にあっさりと「FF」みたいなのがしたいと言ってのけた。誰もが知っているゲームがしたいんだと要求された。そこで考えたのがマシなゲームをひとつ取り上げ
ひとつのゲームシステムの見た目だけを変える「スキン替え」という手法だった。単なるワンボタンのタイミングゲームなら、半日あれば、まったく別のゲームを作ることができた。躊躇している間はなかった。他もどんどん値下げしてくる。何も考えずに量産を始めた。業界全体がそういう流れを作り出した。どこからも注文が殺到した・・・。

そして、唐突に「お前はクソだ」という言葉を浴びせられかけ、はっと我に返った。



クソゲームの山
気がつくと、クソゲームに囲まれ、その上に立っている自分がいた。ここから、ざっと辺りを見回して、決して豊かとは言いがたい現状の日本のゲーム文化の全体が見えている。制作者が言うべき言葉ではないが、すべてのユーザー、すべてのゲーム制作者にあやまりたい。

申し訳ありませんでしたと。

決して私だけの問題ではのは承知している。みんなクソゲームを作ろうとしているわけではない。がむしゃらなのだ。走り続けるしかなかった。しかし、思いは少しずつズレていき気がつくととんでもないところにいる。誰も日本のゲーム業界全体を見る余裕なんてなかったのかもしれない。しかし、「日本のゲームはクソだ」と言われたとき、はっと周りを見渡して、確かにそうだと感じてしまった。薄々は感じていた。でも、それを直視することで、仕事を続けることは難しい。見て見ぬフリをしていた。しかし、そう感じてしまったら、もう山を降りるしかないだろう・・・。そう感じながらもクソを作り続けるのなら、それは欺瞞でしかない。

すべてを否定するわけではない。しかし、多くの制作者、たとえばなんならかのライセンスを使ってどこかのゲームシステムをそのまま踏襲したようなゲームを制作している制作者はそのことを嘆いているはずだ。一体、全体のうちどれだけの人が、ゲームの文化全体のことに思いを馳せているだろう。



パンドラの箱、そして下山へ
ちょうど、グリーが釣りゲームの著作権についてモバゲーに訴えを起こした判決が出た。
グリーの勝利。
つまりゲームのシステムに著作権が認められた。これはゲーム制作者にとっては衝撃のニュースだったに違いない。今まで暗黙のルールだった、ゲームルールに著作権はないという点が覆ったのだ。それはほぼすべてのゲーム、すべてのシューティングがすべてのゴルフゲームが著作権違反になるというのに等しい判決なのだ。しかし、その暗黙の了解のおかげでゲームは発展してきた。グリーはパンドラの箱を開けてしまった。

僕は晴れて犯罪者になってしまった。
今まで無数のゲームシステムを盗用したかどで投獄されたりするだろうか。数で言えば、おそらく、日本一かもしれない。もし、そのことで、投獄されるのならば、おそらく日本にいるすべてのゲーム制作者が娑婆から消え去るだろう。それもいいかもしれない。

ここらで、みんなで山を降りませんか?
本当に実在しないデジタルのカードに何十万も使うゲームが
長い目で人を幸せにしてくれるでしょうか?

もう一度、ゲームの未来について立ち止まって考えるいい機会が来ているのだと思う。
ゲームが大好きでゲーム制作者になった人たちの中で何人の人がワクワクするような思いでゲームが作れているか問いたい。お金が儲かる側の人はワクワクしているかもしれないですね。でも、ユーザーを幸せにしているかもしれないという思いでワクワクできているでしょうか。

私は山を降ります。
もう一度、自分の山を登ります。
誰かをワクワクさせ、ちょっとだけ幸せにしてくれるゲームを作るために
自分の時間を使います。
すぐにこの山から下りるのは時間がかかるでしょう。
なにせ、結構登ってしまいましたから。
もう妥協はしません。私にはそんな時間も残されていません。

自分の子供にやらせたいと思うゲームをつくりたい。

今は強くそう思うだけです。
# by radiodays_coma13 | 2012-03-11 06:48 | 考える
アーツカウンシルに期待すること
芸術家として食べていくにはどうしたらいいか?

そんなことに果敢に挑戦した事があった。
結果、食べていけるにはいけたが、それは憧れていた「芸術家」ではなかった。
パトロンと言える人からカンパしてもらう、或いは、人に教えて先生と言われる。
そしてもうひとつの道が、公や企業という団体からお金をもらうという方法。
そのために色々考え、色々顔を出し、色々活動しようとしたが、自分が自分が思った以上に、社交的ではないということに気がついてしまい、色々絶望し、さらに、ふと「何か」気がついて、パタと活動自体を休止した。
それは活動継続不可能な、根本的な理由だった。

その「何か」は「芸術家」であろうとしたことが嫌になったから。

なんだか、そもそも不純だったんですね…。
純粋なイメージの中の「芸術家」として生きていくのは難しかったということで…。
制度的にも。

東京に出てくる前に住んでいた大阪市で、橋下知事が当選し市長になった。
彼が文化に使われる財源を減らすという。
なんでも「アーツカウンシル」という制度を導入することを検討しているらしい。

とてもすばらしいと思った。

「そもそも芸術は、現代において、国や団体が庇護すべきなのか?」
国の助成を受けたロッカーの歌を人は聴きたいと思うか?
それはロックと言えるのか?
それと同じことを文化の助成に関して感じてしまう。

自分自身が無謀にも芸術で食べていくことを志し、そして、無謀にも散っていった仲間をたくさんみてきた。
もし、助成をもらえるというのなら、喜んで飛びついただろう。
そして、そのチャンスにあやかろうという沢山の仲間の奮闘も目にしてきた。
一度、手にしたその魔法を二度と手放すまいとジタバタする仲間も目撃した。
そして、その蜜にあやかれず嫉妬しスネる自分も目の当たりにした。

必ずしも「助成」が優れた文化を生み出すのではない。
むしろ、それはまったく関係ないと言っていい。
文化的なものは生まれるかもしれない。
しかし、それはその時代に根ざした本物のアートではない。
そこに出来上がるのはレクリエーションに過ぎない。
これはまったくの個人的見解であります。

アーツカウンシルとい評価の数値化により、どんどん文化に使う財源を減らせばよいのだと個人的には思っています。
もし、芸術が本物なら、このような危機に当選した橋下市長のように危機にこそ本当の文化が生まれてくるはずだから。
そう信じたい。

芸術や文化が単なる余暇をもてあました人間の作り出した退屈の産物にはして欲しくないなあと心から思います。


人間は先史時代、遊牧生活をしていた。
そこで、どういうわけか、唐突に温帯地域で定住生活が始まった。
唐突にというのは、農耕が先ではなく定住が先だからだ。
農耕の結果定住したのではない。定住生活により、人は暇を得ることができた。
人は危険に満ちた遊牧で研ぎ澄ました感覚をもてあますようになった。
定住が人にもたらした変化は大きい。ゴミ処理の問題や、排便。
これらは定住によりもたらされた大きな変化である。
その証拠に、幼児にはゴミや排便は通過儀礼のように、経験しなければならない大きな試練としてある。
つまり、ゴミ捨てや排便は後天的にもたらされた文明である証拠に他ならない。
そして、所有するという概念も貯蔵という形で定住によりもたらされた。
所有は経済を生んだ。
そして同時に、奪うという行為として、新しい諍いをもたらしただろう。
それは権力を生み、貧困を作り出した。
そして、ここで話題にする「暇」も定住生活によりもたらされたものだ。
人は「退屈」するようになった。

余暇による「退屈」は遊びを作り出し、文化を発展させる原動力となった。
かつて「余暇」は権力の象徴であった。
選ばれた者だけが余暇を得、それを誇示した。
そして、芸術は余暇の産物という意味でその象徴であった。
選ばれた者だけが芸術を所有することができ、それを見せびらかすことができたのだ。
そして、余暇を持つ選ばれた者に庇護され芸術家は生きてきた。
それがパトロン制度である。

現在は「暇」と言えば、あまり良い言葉ではない。
先進国の中流化が進み、芸術は一般大衆にまで降りてきた。
しかしだ、本当に芸術は一般大衆化したのだろうか。

落語に「茶の湯」という有名な噺がある。
大きな店のお隠居が暇をもてあまし、引越し先にたまたまあった茶道具で茶の湯を始める。
しかし、もともと茶の湯を知らないご隠居は知らないというのが恥ずかしいために、お茶さえ知らない状態で
めちゃくちゃな茶道をはじめる。
それに招かれた客も知らないというのが恥ずかしいために適当にあわせる。
そういう日々が続く。
しかし、その茶も茶菓子もデタラメでいただけるシロモノではない。
客人たちはたまらず、主人の見ていない隙に隣の畑に茶菓子を投げる。
すると農作業をしていた百姓が「また茶の湯か」とせせせら笑うというオチ。

多くの芸術と呼ばれ庇護されようとしているものには「茶の湯」を出ていないモノが多い。
そして、それをありがたがっているのは、知らないというのを恥ずかしがる客人と似ている。
しかし、大衆はその姿を揶揄して「また茶の湯か」と感じている。
本当に経済の危機に瀕した時に芸術にお金を使えるのか。
それは個人単位の話ではなく、企業や団体単位でも同じことで、かつでバブルの時期に企業メセナが流行ったが、崩壊後、それはごく小規模のものになった。
本系イギリスの「アーツカウンシル」も経済の悪化とともに、見直しを迫られている。
本当に、この日本でアーツカウンシルが有効に働くだろうか。

数値化をする専門家も固定化すればそこに既得権益がうまれ、今までとなんら変わらなくなるだろう。
いかに既得権益を生まないようにするか。
ヴェネチアがかつて行ったような、既得権益を産まない投票方式を採用するもよし。
そこにはまだまだ論議の余地がある。
国が文化を庇護することは決して悪くはないが、それを本当に評価するのは個人であり、それを芸術というのも、作り手ではなく鑑賞者の手にゆだねられているはずだから。

そして、暇を越えるものでない限り、それは茶の湯の域を超えないだろう。
パトロン制度から消費社会を経て、次なるモノツクリのあり方が問われている。
企業や公のくびきから芸術を解き放つものをいかに支援するか。
支援されたがるモノツクリと、現状の発露として出てきたモノツクリとは、結果も異なる。
人口=クリエイター的な現代で、見るに耐えるものがあるとすれば、本当に危機的な状況で大衆に支持されるものであるだろう。

なんにしろ、それは作り手の知ったこっちゃないはずなんです。
少なくとも作り手の側からクレクレすることじゃないだろうなと。

アーツカウンシルによって、公による文化支援が厳しく見直されることを期待してやまない。
# by radiodays_coma13 | 2012-01-09 07:55
女性は本当にわからない
会話が流れ流れて、AVにおいて30歳以上は熟女モノのコーナーにあるんだよ、熟女といえばマニアックに該当するよね、というような話を妻に披露したら、突然、妻がキレた。

女性は本当にわからない。

それは社会一般の雑学みたいなもので、そこに個人的見地は一切、もう本当にビタ一文含まれていないにも関わらずだ。もう、ババアと言っただの、変態呼ばわりしただの大変な騒ぎ。正確にはババアとは言ってないし、むしろ変態なのは、その可能性が含まれるのは、その雑学を披露した私の方かもしれぬのに。

しかし、そこには正確さは求められていないようだった。言った言わないの水掛け論はここでは意味を成さない。それ以前にかけているのは水ではないからだ。そんな早朝に花に水をかけたかかけていないなんという、新婚夫婦の会話みたいに生易しいものではない。


野坂昭如先生が、能吉利人名義で作詞した「黒の舟歌」の歌詞にある
♪男と女の間には
深くて暗い川がある

の心境です。心の中で熱唱するくらいの気持ちです。
ブルースで歌ってしまいます。
心で泣いてました。
いつもいつも難破してばかりです。
そして、いつもいつも心に誓う。
「もう二度と船出すまい」と。

でも、それでも、また船出してしまうのです。
♪誰も渡れる川なれど
エンヤコラ今夜も船を出す

大熱唱です。
これには遺伝子の不思議を呪わないわけにはいかない。
たった1%以下の差がこんなに悲劇的な絶壁を作り出すとは。
一体そこにどんな膨大な情報が含まれているんでしょう。
男女の溝が何万年経っても埋められていない現在、
人の世の中がよくなっていくなんて迷信だと確信できる。

理屈ではないのです。理屈では…。理論的にはなにも通じないのです。
女性には理屈などどうでもいいのです。共感が大事。
そうだったそうだった、私がバカだった。
そこですかさず、30歳を熟女コーナーに置くなんて、世の中どうかしてるよ!
それを考えた責任者はド変態だったに違いないよ。
熟女が大好きで大好きで、少しでも自分の熟女時間を増やすために
熟女のハードルを大幅にダンピングしたに違いないよね
人格を疑うよね、
くらいのことが言えれば平和にコトは納まったのかもしれない。
後悔しています。
本当に後悔しています。

男に生まれたことを…。

男なら、不思議なことに誰しも若い女性が好みってなもんですよ。
それは浪漫なんです。登山家がチョモランマを目指すようなものです。
それは何故なんでしょうね、不思議を超えて不可思議です。
それは遺伝子的にうんたらかんたら言われれば理解はできます。
でも、もう人類も長いんだし、行き詰まりを感じているんだし
そろそろ進化してもいいのではないかと思うんです。

女性に、自らの変態っぷりを指摘され
もう本当に男ってワケがわからないという目で蔑まれる時の
悠久の寂しさよ。

遺伝子一個の変化がそんなにも大きなものなら
いっそ、遺伝子の解析を進めて、遺伝子をデザインしてはどうだろうと
危険なことを考えてしまいます。
道徳なんて、遺伝子の前では風前の灯と同じ。
人間というこのエッジの効いた存在を地球に適すように
リデザインすることもあながち間違えではないのではないかと思えてきます。
まずはその魁として、男女が嫌悪感なく愛し合えるようにすれば
もっと世界が平和になるのではないかと。
それはもう道徳云々では不可能なはずだ。

ああ、進化したい。
川から這い上がった魚もおんなじ気持ちだったかなぁ。
魚も辛かったんだねぇ。
住みづらい世の中だよねぇ。

う~ん、この湧き上がる怒りはなんだろう。
しからば、許すということが愛かもしれない。
この状況を受け入れるには宗教的な逃避しかないようにも思える。
謝罪するしかないのだろうか。
左の頬をぶたれて、右の頬を差し出すキリストの心情です。
あやまればいいんでしょ、あやまれば!
ダメだ、そんな気持ちならすぐに見破られる。
黙って俺についてこい!
ダメだ、殺される。
土下座…無理。
僕、本当は熟女マニアなんだ。
火に油だな…。

久しぶりに奥さんに手紙と花でも贈りますか。
# by radiodays_coma13 | 2012-01-05 07:31 | 考える