IE9ピン留め
「子供のためのコンテンツをつくること」          cooma.exblog.jp
アーツカウンシルに期待すること
芸術家として食べていくにはどうしたらいいか?

そんなことに果敢に挑戦した事があった。
結果、食べていけるにはいけたが、それは憧れていた「芸術家」ではなかった。
パトロンと言える人からカンパしてもらう、或いは、人に教えて先生と言われる。
そしてもうひとつの道が、公や企業という団体からお金をもらうという方法。
そのために色々考え、色々顔を出し、色々活動しようとしたが、自分が自分が思った以上に、社交的ではないということに気がついてしまい、色々絶望し、さらに、ふと「何か」気がついて、パタと活動自体を休止した。
それは活動継続不可能な、根本的な理由だった。

その「何か」は「芸術家」であろうとしたことが嫌になったから。

なんだか、そもそも不純だったんですね…。
純粋なイメージの中の「芸術家」として生きていくのは難しかったということで…。
制度的にも。

東京に出てくる前に住んでいた大阪市で、橋本知事が当選し市長になった。
彼が文化に使われる財源を減らすという。
なんでも「アーツカウンシル」という制度を導入することを検討しているらしい。

とてもすばらしいと思った。

「そもそも芸術は、現代において、国や団体が庇護すべきなのか?」
国の助成を受けたロッカーの歌を人は聴きたいと思うか?
それはロックと言えるのか?
それと同じことを文化の助成に関して感じてしまう。

自分自身が無謀にも芸術で食べていくことを志し、そして、無謀にも散っていった仲間をたくさんみてきた。
もし、助成をもらえるというのなら、喜んで飛びついただろう。
そして、そのチャンスにあやかろうという沢山の仲間の奮闘も目にしてきた。
一度、手にしたその魔法を二度と手放すまいとジタバタする仲間も目撃した。
そして、その蜜にあやかれず嫉妬しスネる自分も目の当たりにした。

必ずしも「助成」が優れた文化を生み出すのではない。
むしろ、それはまったく関係ないと言っていい。
文化的なものは生まれるかもしれない。
しかし、それはその時代に根ざした本物のアートではない。
そこに出来上がるのはレクリエーションに過ぎない。
これはまったくの個人的見解であります。

アーツカウンシルとい評価の数値化により、どんどん文化に使う財源を減らせばよいのだと個人的には思っています。
もし、芸術が本物なら、このような危機に当選した橋本市長のように危機にこそ本当の文化が生まれてくるはずだから。
そう信じたい。

芸術や文化が単なる余暇をもてあました人間の作り出した退屈の産物にはして欲しくないなあと心から思います。


人間は先史時代、遊牧生活をしていた。
そこで、どういうわけか、唐突に温帯地域で定住生活が始まった。
唐突にというのは、農耕が先ではなく定住が先だからだ。
農耕の結果定住したのではない。定住生活により、人は暇を得ることができた。
人は危険に満ちた遊牧で研ぎ澄ました感覚をもてあますようになった。
定住が人にもたらした変化は大きい。ゴミ処理の問題や、排便。
これらは定住によりもたらされた大きな変化である。
その証拠に、幼児にはゴミや排便は通過儀礼のように、経験しなければならない大きな試練としてある。
つまり、ゴミ捨てや排便は後天的にもたらされた文明である証拠に他ならない。
そして、所有するという概念も貯蔵という形で定住によりもたらされた。
所有は経済を生んだ。
そして同時に、奪うという行為として、新しい諍いをもたらしただろう。
それは権力を生み、貧困を作り出した。
そして、ここで話題にする「暇」も定住生活によりもたらされたものだ。
人は「退屈」するようになった。

余暇による「退屈」は遊びを作り出し、文化を発展させる原動力となった。
かつて「余暇」は権力の象徴であった。
選ばれた者だけが余暇を得、それを誇示した。
そして、芸術は余暇の産物という意味でその象徴であった。
選ばれた者だけが芸術を所有することができ、それを見せびらかすことができたのだ。
そして、余暇を持つ選ばれた者に庇護され芸術家は生きてきた。
それがパトロン制度である。

現在は「暇」と言えば、あまり良い言葉ではない。
先進国の中流化が進み、芸術は一般大衆にまで降りてきた。
しかしだ、本当に芸術は一般大衆化したのだろうか。

落語に「茶の湯」という有名な噺がある。
大きな店のお隠居が暇をもてあまし、引越し先にたまたまあった茶道具で茶の湯を始める。
しかし、もともと茶の湯を知らないご隠居は知らないというのが恥ずかしいために、お茶さえ知らない状態で
めちゃくちゃな茶道をはじめる。
それに招かれた客も知らないというのが恥ずかしいために適当にあわせる。
そういう日々が続く。
しかし、その茶も茶菓子もデタラメでいただけるシロモノではない。
客人たちはたまらず、主人の見ていない隙に隣の畑に茶菓子を投げる。
すると農作業をしていた百姓が「また茶の湯か」とせせせら笑うというオチ。

多くの芸術と呼ばれ庇護されようとしているものには「茶の湯」を出ていないモノが多い。
そして、それをありがたがっているのは、知らないというのを恥ずかしがる客人と似ている。
しかし、大衆はその姿を揶揄して「また茶の湯か」と感じている。
本当に経済の危機に瀕した時に芸術にお金を使えるのか。
それは個人単位の話ではなく、企業や団体単位でも同じことで、かつでバブルの時期に企業メセナが流行ったが、崩壊後、それはごく小規模のものになった。
本系イギリスの「アーツカウンシル」も経済の悪化とともに、見直しを迫られている。
本当に、この日本でアーツカウンシルが有効に働くだろうか。

数値化をする専門家も固定化すればそこに既得権益がうまれ、今までとなんら変わらなくなるだろう。
いかに既得権益を生まないようにするか。
ヴェネチアがかつて行ったような、既得権益を産まない投票方式を採用するもよし。
そこにはまだまだ論議の余地がある。
国が文化を庇護することは決して悪くはないが、それを本当に評価するのは個人であり、それを芸術というのも、作り手ではなく鑑賞者の手にゆだねられているはずだから。

そして、暇を越えるものでない限り、それは茶の湯の域を超えないだろう。
パトロン制度から消費社会を経て、次なるモノツクリのあり方が問われている。
企業や公のくびきから芸術を解き放つものをいかに支援するか。
支援されたがるモノツクリと、現状の発露として出てきたモノツクリとは、結果も異なる。
人口=クリエイター的な現代で、見るに耐えるものがあるとすれば、本当に危機的な状況で大衆に支持されるものであるだろう。

なんにしろ、それは作り手の知ったこっちゃないはずなんです。
少なくとも作り手の側からクレクレすることじゃないだろうなと。

アーツカウンシルによって、公による文化支援が厳しく見直されることを期待してやまない。
# by radiodays_coma13 | 2012-01-09 07:55 | Trackback | Comments(1)
女性は本当にわからない
会話が流れ流れて、AVにおいて30歳以上は熟女モノのコーナーにあるんだよ、熟女といえばマニアックに該当するよね、というような話を妻に披露したら、突然、妻がキレた。

女性は本当にわからない。

それは社会一般の雑学みたいなもので、そこに個人的見地は一切、もう本当にビタ一文含まれていないにも関わらずだ。もう、ババアと言っただの、変態呼ばわりしただの大変な騒ぎ。正確にはババアとは言ってないし、むしろ変態なのは、その可能性が含まれるのは、その雑学を披露した私の方かもしれぬのに。

しかし、そこには正確さは求められていないようだった。言った言わないの水掛け論はここでは意味を成さない。それ以前にかけているのは水ではないからだ。そんな早朝に花に水をかけたかかけていないなんという、新婚夫婦の会話みたいに生易しいものではない。


野坂昭如先生が、能吉利人名義で作詞した「黒の舟歌」の歌詞にある
♪男と女の間には
深くて暗い川がある

の心境です。心の中で熱唱するくらいの気持ちです。
ブルースで歌ってしまいます。
心で泣いてました。
いつもいつも難破してばかりです。
そして、いつもいつも心に誓う。
「もう二度と船出すまい」と。

でも、それでも、また船出してしまうのです。
♪誰も渡れる川なれど
エンヤコラ今夜も船を出す

大熱唱です。
これには遺伝子の不思議を呪わないわけにはいかない。
たった1%以下の差がこんなに悲劇的な絶壁を作り出すとは。
一体そこにどんな膨大な情報が含まれているんでしょう。
男女の溝が何万年経っても埋められていない現在、
人の世の中がよくなっていくなんて迷信だと確信できる。

理屈ではないのです。理屈では…。理論的にはなにも通じないのです。
女性には理屈などどうでもいいのです。共感が大事。
そうだったそうだった、私がバカだった。
そこですかさず、30歳を熟女コーナーに置くなんて、世の中どうかしてるよ!
それを考えた責任者はド変態だったに違いないよ。
熟女が大好きで大好きで、少しでも自分の熟女時間を増やすために
熟女のハードルを大幅にダンピングしたに違いないよね
人格を疑うよね、
くらいのことが言えれば平和にコトは納まったのかもしれない。
後悔しています。
本当に後悔しています。

男に生まれたことを…。

男なら、不思議なことに誰しも若い女性が好みってなもんですよ。
それは浪漫なんです。登山家がチョモランマを目指すようなものです。
それは何故なんでしょうね、不思議を超えて不可思議です。
それは遺伝子的にうんたらかんたら言われれば理解はできます。
でも、もう人類も長いんだし、行き詰まりを感じているんだし
そろそろ進化してもいいのではないかと思うんです。

女性に、自らの変態っぷりを指摘され
もう本当に男ってワケがわからないという目で蔑まれる時の
悠久の寂しさよ。

遺伝子一個の変化がそんなにも大きなものなら
いっそ、遺伝子の解析を進めて、遺伝子をデザインしてはどうだろうと
危険なことを考えてしまいます。
道徳なんて、遺伝子の前では風前の灯と同じ。
人間というこのエッジの効いた存在を地球に適すように
リデザインすることもあながち間違えではないのではないかと思えてきます。
まずはその魁として、男女が嫌悪感なく愛し合えるようにすれば
もっと世界が平和になるのではないかと。
それはもう道徳云々では不可能なはずだ。

ああ、進化したい。
川から這い上がった魚もおんなじ気持ちだったかなぁ。
魚も辛かったんだねぇ。
住みづらい世の中だよねぇ。

う~ん、この湧き上がる怒りはなんだろう。
しからば、許すということが愛かもしれない。
この状況を受け入れるには宗教的な逃避しかないようにも思える。
謝罪するしかないのだろうか。
左の頬をぶたれて、右の頬を差し出すキリストの心情です。
あやまればいいんでしょ、あやまれば!
ダメだ、そんな気持ちならすぐに見破られる。
黙って俺についてこい!
ダメだ、殺される。
土下座…無理。
僕、本当は熟女マニアなんだ。
火に油だな…。

久しぶりに奥さんに手紙と花でも贈りますか。
# by radiodays_coma13 | 2012-01-05 07:31 | 考える | Trackback | Comments(3)
だんしがしんだ
談志が死んだ
だんしがしんだ

おかしな回文。
冗談みたいな本当の話。
ついに僕は立川談志師匠の高座を見るチャンスを失ってしまった。
もう少し早く落語に熱くなっていればよかったと悔やむばかりだ。

昔から、お笑いがたまらなく好きだった。
関西人だからというのではない
むしろ、関西人であったからこそ
天邪鬼ゆえにお笑いから距離を置いてしまったくらいだ。
小学生の頃はなんとなくお笑いを目指していた。
初めてコンビを組んだのが小学校4年生の頃。
同級生の山本くんと「日露戦争」というコンビ名で
ネタカセットを作り売りさばいた。
しかし、関西人という枠から超えることができず
目指すお笑いを関西であることが邪魔をし、スランプに陥る。
ついにはその実力を公にみせるチャンスもなく
失意の中で惜しまれながら解散してしまった。
奇しくも20年後、違う山本くんと
再度「RADIODAYS」という
お笑いまがいのパフォーマンスコンビを組んだが
夢いっぱいの上京直前
相方に逃げられてしまった。
まったくついてない。

こつこつと落語は見ていた。
特に桂枝雀師匠の落語が大好きだった。
落語の喜びを共有できる同世代の友人など存在しなかった。
その頃丁度、漫才ブーム。
「落語が好き」なんてあまり公言したくなかったのだ。
それに落語なんて伝統芸能みたいなもんだし、
いつでもみれるや、じいさんになってからでも遅くないと思ったのが
運の尽きだった。

気がつくと、小さん、志ん朝、枝雀が亡くなり、
米朝さん高座にあがらなくなり、名人といわれる人がいなくなっていた。
この歳になって、ようやく落語を共有できる友人と出会い
落語に改めてのめり込んだ。
が、しばし遅かった…。

もう観るチャンスの残されている名人は
柳家小三治師匠と立川談志師匠しかいなかった。

ここ最近、過去の名人から、存命の噺家さんの
録音を片っ端から聴いていった。寄席にも通った。
今はなき名人の人たちの録音はさすがに素晴らしかった。
三笑亭可楽、三遊亭円生、桂文楽はヘビーローテーション。
が、存命で枝雀師匠を生の高座で観たときと同様の衝撃を受けたのは
たった一人、高座で観た、柳家小三治師匠だけだった。

そして、立川談志師匠。
僕は、嫌いだった。TVに出る彼の傲慢で高慢ちきな
話し方がすこぶる嫌いだった。
チャンネルを変えるほど嫌いだった。
高座の録音も知ってはいたが避けていた。
見た感じが嫌なんだから、高座も嫌に違いないって。
それさえなかったなら…。今は悔やんでも悔やみきれない。
YOUTUBEで彼の高座の動画を発見したので、
怖いもの観たさ半分、いやなら、すぐ消せばいいやと思って観てみた
「芝浜」にただただ、度肝を抜かれた。
紛れもない名人だった。
型破りなのか自由なのか、今まで見たことがない落語だった。
神がかっていると感じた。
その瞬間「しまった!」と思った。激しい後悔。
とっさに彼の高座を探した。しかし、遅かった。

しかし、チャンスを待とうと思った。
もしかしたら、そんなチャンスがあるかもしれない…。
一度、根津のお祭り、確か昨年の10月だったと思う。
そこで、談志師匠を見かけた。
どこかの店先で色紙を描いていた。
釘付けになった。
僕が談志さんを生で見たのはついにこれが最後になってしまった。

僕が落語に感じていた息吹、なんというか落語が主題とする
日本人の原風景となった江戸や昭和初期の人々の生命感
それが僕にとって他のお笑いには変えがたい魅力であった。
そして日本人の土着的な笑いの本質。粋や息や色気を
プンプンを匂いたつくらいに感じられた。
落語を聴くと干物が食べたくなった。
落語を聴くとむしょうに酒が旨かった。
(子供の頃は酒は飲まなかったけど、お風呂で洗面器にお湯を入れ
落語家の真似をして、んぐんぐお湯を飲むフリをして
お燗はいいねぇ、喉のこの辺をキューと酒が通るのがわかるよ
五臓六腑に染み渡るとはこのことだね、とか一人悦にいっていた)

そんな息吹を感じられる噺家さんはもういなくなった。
なにかが終わった。失われたと言っても言い過ぎではないと感じる。
自分がある時代に取り残されてしまったという寂寞感。
もうあの息吹がないのなら、落語じゃなくてもいい、
新しいお笑いでも探そうかしらと自暴自棄になりそうになる。
しかし、まだ、たった一人、柳家小三冶師匠が生きていてくれる。
もう、拝むような気持ちだ。
あと、何回、師匠の高座を観れるだろう。
落語の最後のともし火を僕は自分に許される限り観ておこうと思う。
そして、自分の子供にも一度、みせてあげたい。
いつか、大人になって、
「僕はあの柳屋小三冶を生で観たことがある」というのを
きっと自慢できる日が来るはずだから。
それは日本人にとっての誇りになりえるはずだから…。

追伸
落語は死んだというような書き方になってしまいましたが
まだまだ、上手な人はいると思います。
談志師匠はみれませんでしたが、談志師匠のお弟子さんには
志の輔、志らく、談笑、本当にたくさん、素晴らしい落語家の方がおられます。
これはせめてもの置き土産というのか、僕はそこに談志師匠の息吹を
感じることができます。

本当の落語の息吹を感じさせてくれる落語家を、
金馬、柳橋、志ん生、円生、文楽とすると
志ん朝、談志、小三冶はその次の世代、そして、今の落語家はその孫の孫
コピーのコピーなのかもしれません。
先日、アニメ作家の押井守さんが、現在のアニメを
「コピーのコピーのコピー」と批判していました。
「表現といえない」とそういう言い方で言えば、我々の時代は
全てがコピーの時代と言えるだろう。
コピーのコピーのコピー、もうコピーでありすぎて、
元がなんだかわからなくなっている。
型だけが残る。それは落語しかり、歌舞伎しかり、
すべての文化がたどる道でもある。
今の時代に「その道をまっつぐ帰るってんで」なんて言っても白々しい。
リアルじゃない。
そして、デジタルが登場し、
もうリアルの意味もコピーの意味も変わってしまった。
でも、それでも、我々はそこに生きて、時には表現しないといけないのである。
息吹が感じられないと通ぶって、これからのものを門前で批判するのは
いただけない。第一、粋じゃないね。

押井守さんは現代のモノツクリ、例えばアニメ業界のあり方の難しさに対して
嘆いただけかもしれないが
残された僕らは憂慮するヒマなんてないのだと思う。
憂慮したら、もうそれはご隠居になってしまったということを
宣言しているようなものです。
落語界にもアニメ界にも、きっと次の世代が現れるに違いない。
それが今から、待ち遠しい。

立川談志さんのご冥福をお祈りします。
たくさん、楽しませていただいてありがとうございます。
あなたの「黄金餅」を聴いて、醜い人間の可笑しさ
それでも人間は美しいと思えることができました。
あなたの屍の中に黄金を見つけ出した心持です。
献杯!
# by radiodays_coma13 | 2011-11-25 01:28 | ニュース | Trackback | Comments(0)
アップルとマイクロソフト
スティーブ・ジョブスが亡くなっていた。
直接関わったことなんかないのだけれど
身近な親類がなくなったくらいの衝撃を感じた。
ITに関わる者であれば、多かれ少なかれの影響を受け
多かれ少なかれ振り回されたことがあるだろうジョブスという存在。
そして、30年も前、小学校の頃にパソコン少年だった自分にとっては
appleというアイコンはそれ以上に大きな意味を持っていた。

ニコニコ生放送で話題になっていた
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1668825.html
について

脳科学者の茂木さんがおそらく
appleの商品を賞賛する為の対比として
windowsPCの使い勝手の悪さを殊更に
強調してしまったのだろうが
「使っている時間に比例して嫌になっちゃう」
と発言してしまった。
その場に折り悪く、元マイクロソフト副社長の
西さんがおられた。起こるべくして起こったとしか
いいようがない。

一個人の意見として否定するつもりはないが
僕はapple社製品に関して全く逆の感想を持っている。
apple社の製品を使うのが好きではない。
使う時間に比例して嫌になってしまう。

スティーブ・ジョブスは人間的に面白いし、
彼に関する書物は、示唆に富み、色々な意味で
学ぶべきものが多く、尊敬に値する。

そして、彼が作り出した商品は
本当にすばらしいの一言だ。
彼がAPPLE社に復帰して以降の
商品を使ってみて初めて
ユーザーインターフェースの奥深さと
そのなんたるかの意味を知ったように思う。

全てがそろっているが、その使い方がわからない便利な部屋と
欲しいと口にするだけで、全てが前に現れる部屋との違い
くらいの違いがある。

そして、なによりもその洗練されたデザイン。それは
今までのパソコンからは考えられないシンプルさと
美しさを持っていた。それは他のプロダクトデザインにも
強い衝撃と影響を与えた。
今までのIT機器では考えられなかった偉業だ。

apple社の製品はクリエイティブな人々が多く使っているし
windouws派とmac派で言えば
俄然、クリエイティブといえば、mac派といっても
間違いではないだろう。

だがしかし、なのだ
それはわかっているのだが、単なる天邪鬼ではなくて
僕はそれが不思議で仕方ない。

あのPCを使っていると、自分が道具を使っている感じがしない。
何かを作っている感じもしない。
最終的には自分をもインターフェースにしまおうとするその発想から
くるのか、PCと対話しているあの感じがない。
それはいいことなのかもしれないが、ゴツゴツした手触りがないのだ。

そして、こともあろうにクリエイティブを邪魔してくる。
というか、目の前に、すばらしい完成品があり、それを使っていると
なにか悲しくなるというか、答えを見せ付けられているような気がしてくる。
「ほら、俺みたいなものを作れよ」と気がつかないうちに
その思想性やエッセンスを叩き込まれているような、
デザインが引きずられているような心地がしてくる。
他の人に聞いたけれども、それを感じるという人にはまだ会っていない。
だから、これは個人的な感想に過ぎない。
それとも、もう、皆、apple教に洗脳済みだったのかもしれない。

そう、それは宗教に近いのかもしれない。
macで作るということは、ジョブスを教祖とする
彼らの宗教の上で制作をするように思えてならない。
それはすなわち、その価値観の上の道を歩くか
その山のさらに高みを目指すのかという選択ししかない。
macを使って何かを作る心地は
教会で仏を祈るような居心地の悪さに近い。
いつも、背後にジョブスが立っていて
せせら笑われているような被害妄想に陥る。
そこに、猛烈な窮屈さを感じてしまうのだ。使えば使うほどに!
それはmac恐怖症といっても大げさではない。

そして、一方のwindowsは無宗教を感じる。
使い方は自分で考えてくださいと道具を与えてもらう。
初めて工作するときのワクワクがそこにはある。
不親切だが、そこには自由がある。
押し付けがましさもない。単なる箱だ。
僕はのびのびと自分の身の丈で制作に打ち込める。

僕は正直なところ、パソコンには
ジョブスが言うような個性や美しさはいらないと思う。
便利であるべきだとは思うが
作るということの最終目標は
自分でその仕組み自体を作るオーサリングであると思う。
その時、完成された言語や、閉じられたシステムは
それを阻むことになる。
誰もがオーサリングの高みに到達しないとはいえ
閉じられた環境はそこで作られたものにも影響を与えるだろう。
macは常に完成品としての結果を出してきた。
それらの商品はひとつひとつ閉じられた輪を連想させる。
そして、彼が作り出したものや、その態度は
現実に排他的であったといわざるを得ない。
ジョブス無き今、appleは今後、あまりにも個性的な、感情的な
あまりにもジョブス的な商品を引き続き
世の中に出していくのだろうか。
出して行けるのだろうか。

どんな世の中でも
かじりさしのリンゴは猛烈な勢いで
腐敗していくものです。
# by radiodays_coma13 | 2011-10-24 05:49 | ニュース | Trackback | Comments(1)
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